だいたいのものもの

誰からもわすれられた、色々なものの説明を掲載します。

2016年の全国鶏-不動産協会の報告によれば、鶏が日本の家の「敷地」のあり方に大きく影響を与える事を知る日本人が、ついに2パーセントを切ったと言う。これは4年前の調査からさらに0.5ポイント下落したという事であり、その認知の衰退には目を覆うべきものがある。

 

同協会は数十年前より、鶏と敷地の関係が認知されなくなるにつれ、いわゆる「ご近所トラブル」が増加している事実に警鐘を鳴らしてきた。

特に顕著なのが「敷居をはみ出した・はみ出さない」という紛争の増加である。

この手の問題はますます増え続け、減る様子を見せていない。このままではこれから多民族化の進む日本情勢に深刻な問題を生じかねないと、法曹界においても専門の弁護士の育成、裁判所に専用の窓口を設置など様々な計画を打ち立ててはいるものの、そのどれも根本的な解決にはなっていない。鶏と敷地の関係を知っていればこのような揉め事は起こる事すらありえないはずなのに、である。

 

協会はこれまで、鶏が生きて歩き回り、時には短い距離を飛ぶものである。という認識を前提に、鶏と敷地の関係の周知を試みてきた。

しかし年々、鶏が生きて歩くという認識は、前提として成り立たなくなっているというのである。

 

生きた姿を知らず、肉だけを目にするというのは、鶏に限らず牛や豚などの家畜全般において、以前から大きな問題とされてきた。しかし牛や豚の生物としての認知度に比べはるかに、我々日本人は鶏の元の姿を想像する事が困難になっている事は実感としてお分かりの事と思う。

2008年に全国の園児に鶏・牛・豚の絵を描いてもらうという実験が行われた際、牛と豚はすべての子供が生物としての牛・豚を描いたのに対し、比率にして9割5分の子供が肉としての鶏を描いた。それもつみれ・目玉焼き・バンバンジーと実に124種もの多様なパターンで描かれていた事は、状況がいかに深刻かという事を如実に物語っている。

さらに、実験の目的を園児の常識力テストであると勘違いした教諭により、生きた鶏の絵を描いた子供に対して「ちゃんと鶏の絵を描きなさい」と指導し、肉の姿に書き直させたという事例が複数件発生した事も報告されている。

しかも皮肉な事に、生きた鶏の絵を描いた子供は首都圏に多く、地鶏の産地として名高い地方では逆に肉の絵を描く子供がほとんどであった。

 

なぜこのような事態になってしまったのだろうか?

最も大きな原因は、近年の異常な鶏需要と鶏供給にある事は疑いようがないだろう。鶏の成長は年々早くなっており、そのスピードは牛の90倍とも言われる。

すなわち、生きた姿でいる時間が他の家畜に比べ、極端に少ないのである。「コイン」と言われた時に、誰が鋳造される最中の姿を思い浮かべるであろうか? 

そのような事は思いこそすれ、絵などに描いて発表したところで「変わったヤツ」と思われればまだマシ、伝わらない事がほとんどであろう。

 

雛雲とは天気のいい朝方、太陽が昇る直前に一瞬現れる空の模様を、鳥が雛でいる時間の短さになぞらえた古い言葉だが、今は雛どころではなく、鶏の人生すべてが一瞬なのである。

しかし我々は未だ鶏なしでは駐車場の枠すら決めることができない。鶏なしで土地を作ることが可能となるのが先か、ご近所トラブルが紛争に発展し、土地のルールが意味をなさなくなるのが先か。我々は今、歴史の転換点にいる。

 

シラベ杖

多くは先端に鈴がつき、もう片方が赤く塗られた棒の形をしている。地方によって差はあるが、概ね五尺程度の長さであった。橋のたもとに鈴の方を上にして立てかけるものである。

戦国時代末期から江戸時代にかけて主に街道沿いに多く見られ、近現代においても、少なくとも石川のある農村の橋に立てかけられていた事が、写真から確認できる。

 

わが国で伝統的な橋作りに用いられてきた測量器の「シラベ」が変形したものと考えられており、ハンマーのように振り下ろして橋を支える柱の強さを確認するこの道具が、何らかのきっかけで橋を作り終えた後も置かれるようになったのが始まりと言われている。

川の多いわが国は、水害も多い事で知られる。定期的に起こる洪水のために、橋が壊されるような事もしょっちゅうであった。しかし同時に、橋は町と町を、村と村をつなげる、重要な道の一部でもある。

せっかく歩いてきたのに橋が壊れて通行止めになっており、雨で濡れた道をとぼとぼと引き返すという光景は、当時の俳句や浮世絵に好んで描かれた。この、旅に出たい気持ちを抱きつつ、やむを得ない理由で故郷に引き返すという光景は、日本人の感性に強力に訴えかけたのであろう。

 

しかし、その旅人が普通の人間であれば風流で済む風景も、武士や富豪などの高い身分の人間であった場合、大問題となる。無駄足を踏み、恥をかかされたとみなして、最寄りの集落に理不尽な罰を下すからである。

しかし、大名行列ならいざ知らず、武士は早馬に乗って駆けていく事も多く、そうなってしまえば追って注意できるものなど誰もいなかった。

 

そこである時、シラベを用いる事を誰かが考えたのであろう。つまり、武士が壊れた橋のところへやってきても、武士はシラベ杖を、残された基礎の柱に打ち付け、橋を再建するための調査をしに来たという形にする事ができる、というわけである。

武士自体も実は村人を罰する事に後ろ向きであったが、何もしないでは部下や他の武士に対して面目が立たず、止むを得ず罰を与えていたようである。そのため、このシラベ杖は、村人と武士双方に大いに好意的に受け入れられ、街道を伝って瞬く間に全国の橋に広まった。

 

しかし、なぜ巨大なハンマーだったシラベが鈴のついた杖の形に変化したのかは不明である。

一説には、通りかかった武士が幼かったり非力でも扱えるように、簡略化していった結果であるとも言われている。現に、

「鈴の音や 錦の稚児舞う たもとかな」

との歌も残されている。あの形状が子供を夢中にさせた事は想像に難くないだろう。

あみあぶら

かつて風呂は今よりもはるかに貴重な存在であった。

特に乾いた山間部や漁村では綺麗な水が手に入りにくく、「あか太郎」の物語にもあるように、数年にわたり入らないということも珍しくはなかった。そのため時折、温泉地など遠くの浴場に全員で一斉に出かける風習を持った集落が、日本の各地に点在していた。入浴が一種のハレの日として認識されていたのである。当時の風呂は混浴であるから、当然社交および見合いの場としても重要な位置を占めていたのであろう。

現代でも日本人は集団旅行の行き先として温泉を選ぶことが多い。それはやはり、集団で風呂に行く楽しさの記憶が、世代を超えて受け継がれてきたからに違いない。

そして当時は、入浴をより楽しむために、このあみあぶらが用いられたのである。

 

元々はマタギが人間の匂いを消すために使っていた膏薬が変化したものと伝えられている。マタギが副業として村を巡って売りさばいたのであろう。

そのため、製法や原料に関しての記録は発見されていないが、成分を解析した結果、主にイノシシや鯨の油、いわしの骨を砕いたものが検出されている。

この膏薬を、入浴行事の数日前から前日に頭の先から足の指の股までくまなく塗りたくる。すると、膏薬が皮脂と反応し、独特の不快な粘り気と痛んだ油のようなほのかな悪臭をもたらす。特に膝の裏や指の股はなんとも言えず湿ったような、分厚い垢が積もったような感覚となり、逃げ出したくなる程の不快感だったそうだ。

頭も痒くなり、仕事にも身が入らず、村人たちは家の中で翌日の入浴に強い憧れを抱きながら過ごす。そして明け方になると挨拶もそこそこに一斉に風呂を目指し、入浴するのである。

祭りで重要となる言葉を超えた一体感の醸成が、ここに実現されているのであった。

 

浴場の方はたまったものではないかと思いきや、かゆみに苦しむ人々が湯に浸かっただけでたちまち回復するその姿を、ある種の観光資源として利用していたようである。

実際、入浴行事の場となっていた白骨温泉では、入浴行事を見るためにわざわざ武将が訪れたとの記録が残されている。

中には入浴行事専用の浴場に観覧席を設ける所もあった程で、入浴行事は行う当人だけでなく、それを見る人にも他にはない楽しみを与えるものであった。そしてそれを下支えしていたのがあみあぶらなのである。

 

時代が下り、風呂が普及するにつれて行事の重要性は薄れていったが、あみあぶらはより個人的に用いられるようになった。

風呂に入る少し前に頭のてっぺんにちょんとつけたり、指の股にすり込んだりする事で入浴の快感を高めるという使い方で、多く個人的な楽しみがそうであるように、やがてあみあぶらを持っていること自体が破廉恥な事として認識されるようになった。あみあぶらを隠し持っていた事で勘当の憂き目にあった若い娘が、川の女神となり、年老いて貧しくなった両親の元へ魚を届けるという民話が明治期の飛騨にて採録されている。

 

それでもマタギから密かに求める者は跡を絶たなかったが、使用頻度も量も減った結果、薬の供給がなくなり、製法がわからないためにやがて消滅していったようである。

 

透討ち袴(すきうちばかま)

日本式剣術がまだ発展途上の時代に用いられた、一種の着衣である。

見た目は普通の袴と変わらないように見えるが、実は左右二枚の布を真ん中で縫い合わせたものである。普段は糸で繋がっているが、腹側に仕込まれた結び目を解く事で、袴が左右に分離し、ストンと落ちる仕組みとなっている。

これを剣術の師匠と弟子が対決する際に、弟子の方が着用した。

 

武術が発展途上の時代には、力が強いものや才能のあるものが師を打ち負かしてしまう事も多かった。また、師の尊厳も後の封建の世界ほどには高くなかったのである。もしそんな状況で一度でも弟子に打ち負けなどすれば、師は尊厳を失い、門下生もまた従うべき目標を失って一門は崩壊。発展しつつあった術も失われるという事態が頻繁に起こっていた事は想像に難くない。

しかし試合中に手を抜く事は、発展途上とはいえ武人の誇りに背く行為である。早逝した剣術の天才、青山倍流も、師との戦いに際して思わず手を抜いてしまった事を迷い苦しんだ果てに、不幸な自刃を選んでいる。

そうした背景の中で、この透討ち袴が考え出された。

 

これを着用し、弟子が師匠に打ち勝った場合、弟子はこっそり仕掛けを解く。すると、袴がまるで刀で真っ二つにされたかのように分断されるのである。それを見た観客は、誰も気づかぬ間に袴だけを斬ったと師匠を畏れた。

しかし、この袴を用いた試合で人気になったのは、むしろ弟子側の方だった。人々は、下腹部を丸出しにした恥ずかしい姿をさらしながら、潔く負けを認める弟子に対して尊敬の念を抱いたのである。特に若い美男子である場合、その人気は凄まじく、四条河原にてこの袴切りで名を馳せた柿岡甚之助とその美しい弟子・野川与伴が戦った際は、野川の袴が落ちるのを見るため、町中の人間が押し寄せて大パニックになり、死者まで出たと、複数の文献に記されている。試合は師匠である柿岡が勝利したが、なんと野川はさらに袴を落としたという。落ちた袴を得ようと押し寄せた女たちの狂乱ぶりに、

「野川の袴と浮世の静けきを音もなく裂く。柿岡は恐るべき剣士なり」

との文章まで残されている。

 

この袴の秘密については、師匠に迫る実力の弟子にこっそり伝えられたという説と、日々の修行の中で徐々に察していったという説がある。

どちらにせよ、師匠と試合をする=この袴を着用して、勝った時に落とす事ができるようになるには、師への心からの忠誠と、一門全体の将来を考える奥ゆかしさが求められた事は確実であろう。

 

ますのはな

 ますっぱとも。古くは平安時代から、貴族の間から農村まで、広く使われてきた家具の一種である。

大陸より伝来し、僧侶が自らの房に取り付けた「書鈎」が源流と考えられている。

 

 もともと書鈎は、修行の一環として経典や書をしたためる僧が、自分の修行の進度を外の人間に伝えるために開発された修行の道具であった。

木製の天秤のような形をしており、天秤の片側は修行部屋に、もう片側は部屋の外に突き出る形になっていた。使い方としてはまず、修行部屋の中の腕に墨つぼを掛ける。墨を使って経典を書き進めるにつれ、墨つぼが軽くなっていく。すると、外側に突き出た腕がはじめは上を向いていたのが、徐々に下がってくる。その下がり具合を見て、他の僧侶は修行の進度を知る事ができるというわけである。

もちろん、腕が下がればよいというわけではない。早く下げよう、早く墨を減らそうと考え乱暴に墨をつけようものなら、外側の腕に付けられた小さな鈴が鳴り、すぐに知られてしまう。この鈴を鳴らす事はこの修行を行うにあたり、最も恥ずべき事とされた。

「書聖人 筆を鷺のごとく立て」

とはまさに、鈴が鳴らないよう慎重に墨に浸す振る舞いが房の外に出ても染み付いた、書の達人の様子を詠った作品である。

 

 やがて、同じように書を多く書く貴族も愛用し始めた。彼らの場合は修行ではなく、日々の仕事の量を測るため、仕事の早さを誇るために使われたのである。徒然草の一節にも

「鈎を下げんと読めぬ字を連ね 得意げ 悪し」

と記述がある。仕事をするためでなく、鈎を早く下げるために乱暴に書いて読めない文書を乱造し、それで得意な顔をする役人は珍しくなかったのであろう。

 

 さらに時代が下るとこの道具のみが知れ渡り、庶民の間で一般的になった。そこでその形状がますの鼻先に似ているために「ますのはな」と名付けられたようである。特に、部屋の中で行う事を見られるわけにはいかないが、外にそれとなく知らせるような場合に頻繁に用いられた。

 たとえば便所がその代表である。

 衛生状況の悪かった時代、季節によっては腹を下すものが続発した。そこで便所へ行く事になるのであるが、今とは違ってどこにでも便所があるというわけにはいかないから、大抵の場合同じように腹を下した人間がすでに入っている。

 その際、中の人間は後どのくらいで用が済むか、便所の中の腕に下がった小さな重りを少しずつ降ろす事で外の人間に知らせたのである。

 この重りをはばかり小判、セッチンハジキなどと呼び、子供がおはじき代わりに遊んで叱られるという光景は昭和のはじめ頃までよく見られたようである。

 

 また、女郎宿や遊郭でも頻繁に用いられた。今の客の相手があとどのくらいで終わるのか、ますのはなを用いて知らせたのである。

 当然、客の目の前であからさまに行っては失礼にあたる。ゆえにいかにこの重りを下す動作をさりげなく行うかがその遊女の格を決める一つとされた。

「白魚が淀みにさぐるますのはな」

 とは、一緒に楽しんでいると思った遊女の、事務的な動作を目撃してしまった寂しさを詠んだ狂歌である。

 

 また、最高級の遊女ともなると、ますのはなを用いて客を翻弄することさえしたという。絶妙なタイミングで上下させることで、こっそりと部屋の外に忍び寄った馴染みの客に、楽しんでいる様を知らしめるのである。ますのはなが下がったと思ったらまた上がるといった様を見て、客は嫉妬に悶え苦しみ、その遊女により夢中になったという。