だいたいのものもの

誰からもわすれられた、色々なものの説明を掲載します。

あみあぶら

かつて風呂は今よりもはるかに貴重な存在であった。

特に乾いた山間部や漁村では綺麗な水が手に入りにくく、「あか太郎」の物語にもあるように、数年にわたり入らないということも珍しくはなかった。そのため時折、温泉地など遠くの浴場に全員で一斉に出かける風習を持った集落が、日本の各地に点在していた。入浴が一種のハレの日として認識されていたのである。当時の風呂は混浴であるから、当然社交および見合いの場としても重要な位置を占めていたのであろう。

現代でも日本人は集団旅行の行き先として温泉を選ぶことが多い。それはやはり、集団で風呂に行く楽しさの記憶が、世代を超えて受け継がれてきたからに違いない。

そして当時は、入浴をより楽しむために、このあみあぶらが用いられたのである。

 

元々はマタギが人間の匂いを消すために使っていた膏薬が変化したものと伝えられている。マタギが副業として村を巡って売りさばいたのであろう。

そのため、製法や原料に関しての記録は発見されていないが、成分を解析した結果、主にイノシシや鯨の油、いわしの骨を砕いたものが検出されている。

この膏薬を、入浴行事の数日前から前日に頭の先から足の指の股までくまなく塗りたくる。すると、膏薬が皮脂と反応し、独特の不快な粘り気と痛んだ油のようなほのかな悪臭をもたらす。特に膝の裏や指の股はなんとも言えず湿ったような、分厚い垢が積もったような感覚となり、逃げ出したくなる程の不快感だったそうだ。

頭も痒くなり、仕事にも身が入らず、村人たちは家の中で翌日の入浴に強い憧れを抱きながら過ごす。そして明け方になると挨拶もそこそこに一斉に風呂を目指し、入浴するのである。

祭りで重要となる言葉を超えた一体感の醸成が、ここに実現されているのであった。

 

浴場の方はたまったものではないかと思いきや、かゆみに苦しむ人々が湯に浸かっただけでたちまち回復するその姿を、ある種の観光資源として利用していたようである。

実際、入浴行事の場となっていた白骨温泉では、入浴行事を見るためにわざわざ武将が訪れたとの記録が残されている。

中には入浴行事専用の浴場に観覧席を設ける所もあった程で、入浴行事は行う当人だけでなく、それを見る人にも他にはない楽しみを与えるものであった。そしてそれを下支えしていたのがあみあぶらなのである。

 

時代が下り、風呂が普及するにつれて行事の重要性は薄れていったが、あみあぶらはより個人的に用いられるようになった。

風呂に入る少し前に頭のてっぺんにちょんとつけたり、指の股にすり込んだりする事で入浴の快感を高めるという使い方で、多く個人的な楽しみがそうであるように、やがてあみあぶらを持っていること自体が破廉恥な事として認識されるようになった。あみあぶらを隠し持っていた事で勘当の憂き目にあった若い娘が、川の女神となり、年老いて貧しくなった両親の元へ魚を届けるという民話が明治期の飛騨にて採録されている。

 

それでもマタギから密かに求める者は跡を絶たなかったが、使用頻度も量も減った結果、薬の供給がなくなり、製法がわからないためにやがて消滅していったようである。