だいたいのものもの

誰からもわすれられた、色々なものの説明を掲載します。

シラベ杖

多くは先端に鈴がつき、もう片方が赤く塗られた棒の形をしている。地方によって差はあるが、概ね五尺程度の長さであった。橋のたもとに鈴の方を上にして立てかけるものである。

戦国時代末期から江戸時代にかけて主に街道沿いに多く見られ、近現代においても、少なくとも石川のある農村の橋に立てかけられていた事が、写真から確認できる。

 

わが国で伝統的な橋作りに用いられてきた測量器の「シラベ」が変形したものと考えられており、ハンマーのように振り下ろして橋を支える柱の強さを確認するこの道具が、何らかのきっかけで橋を作り終えた後も置かれるようになったのが始まりと言われている。

川の多いわが国は、水害も多い事で知られる。定期的に起こる洪水のために、橋が壊されるような事もしょっちゅうであった。しかし同時に、橋は町と町を、村と村をつなげる、重要な道の一部でもある。

せっかく歩いてきたのに橋が壊れて通行止めになっており、雨で濡れた道をとぼとぼと引き返すという光景は、当時の俳句や浮世絵に好んで描かれた。この、旅に出たい気持ちを抱きつつ、やむを得ない理由で故郷に引き返すという光景は、日本人の感性に強力に訴えかけたのであろう。

 

しかし、その旅人が普通の人間であれば風流で済む風景も、武士や富豪などの高い身分の人間であった場合、大問題となる。無駄足を踏み、恥をかかされたとみなして、最寄りの集落に理不尽な罰を下すからである。

しかし、大名行列ならいざ知らず、武士は早馬に乗って駆けていく事も多く、そうなってしまえば追って注意できるものなど誰もいなかった。

 

そこである時、シラベを用いる事を誰かが考えたのであろう。つまり、武士が壊れた橋のところへやってきても、武士はシラベ杖を、残された基礎の柱に打ち付け、橋を再建するための調査をしに来たという形にする事ができる、というわけである。

武士自体も実は村人を罰する事に後ろ向きであったが、何もしないでは部下や他の武士に対して面目が立たず、止むを得ず罰を与えていたようである。そのため、このシラベ杖は、村人と武士双方に大いに好意的に受け入れられ、街道を伝って瞬く間に全国の橋に広まった。

 

しかし、なぜ巨大なハンマーだったシラベが鈴のついた杖の形に変化したのかは不明である。

一説には、通りかかった武士が幼かったり非力でも扱えるように、簡略化していった結果であるとも言われている。現に、

「鈴の音や 錦の稚児舞う たもとかな」

との歌も残されている。あの形状が子供を夢中にさせた事は想像に難くないだろう。